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小小児科医のコラム38 天ぷら屋 後編

コラム38 天ぷら屋 後編

私の前には、カウンター越しに次々に天ぷらが置かれた。揚げたての天ぷらは美味くないはずはない。一つ食べるとまた一つ、次の天ぷらが置かれる。こちらの食べ具合を見て揚げているようである。見事というしかない。調理台を覗くと大きなボールにコロモが大量に作られてあった。しかしそのコロモには大きな「だま」がたくさん残っている。極力かきまぜないようにしているのだ。タネにコロモを付ける直前になって、すりこぎみたいな太い棒で直線的に一回サッとかき混ぜるだけであった。

私は天ぷらを食べながら考えた。なんでさっきみたいにお釣りを受け取るか断るのかをそんなに悩まなければいけないのだろう。何も考えずに受け取ればいいではないか。おそらく、その発端は過去の体験からだろうと思い当たった。四十五年くらい前にもなる苦い思い出だ。

私が小学校の三年生のころだったと思う。何回か父にスケートに連れて行ってもらったことがある。スケート場へは電車とバスを乗り継いで行くのである。離れた町に行かないとなかったのだ。父は自分と子供全員の切符を買って、まとめて自分で持つようにしていた。子どもに渡すと失くしてしまう恐れがあったのだ。だから、子どもらは父のそばにくっついて行くだけでよかったのである。 ある時、兄と兄の友達でスケートに行くことになった。そこで私も一緒に連れて行ってもらうことにした。まだ一人では乗り物に乗ることはできないが、兄たちと一緒なら安心だ。後にくっついてバスに乗った。バスには車掌さんが乗っていて、その車掌さんから切符を買うのである。子ども一人一人、切符を買った。行先を告げると車掌さんが運賃はいくらか言ってくれた。それを払うのである。私も見よう見まねで切符を買おうとした。行先を告げると車掌さんは子供料金を答えてくれた。子供料金は大人の半額である。大人の料金は十円単位で設定されてあるから、二で割ると子供料金は五円単位になる。端数の五円は切り上げも切り捨てもされず、正真正銘大人の半額の料金である。私はその時の運賃がいくらだったか正確には覚えていないが、とにかく料金の下ひとけたは五円であった。私は五円玉を持っていなかったので、銀貨と十円玉で支払った。お釣りは五円である。車掌さんが「お釣りは五円になります」と言ったのだ。私はその時どうしようか思い迷ったのである。子どもながらにたった五円のお釣りをいちいち受け取るのは何だかけち臭いように思った。バスは混んでいて車掌さんは忙しいのだ。揺れるバスの中で鞄から五円玉を取り出して手渡すのは大変だろう。車掌さんの手を煩わせて申し訳ないような気がしたのである。とっさに深く深く思いめぐらせた末に、「お釣りはいいです」と答えたのであった。
すると、車掌さんはそれこそまさに「鳩が豆鉄砲喰らった」ような顔をした。そして、そんなこととんでもないというように気色ばんだように見えた。兄も兄の友達も「おまえ何を言い出すの」と呆れて、いさめるように私を睨んだ。
私は『しまった』と思った。とんでもないことをしてしまったと悟った。車掌さんにとってお釣りはどんな少額でもおろそかにすることは出来ないのだ。お金の勘定に間違いがあってはならないからである。そんなことみんな常識で知っているから、誰もお釣りを辞退するなどしないのだ。今になってみればそんなこと当たり前であるが、当時の私にはそれが分からなかった。
「困ります」と言うので、私は五円玉を受け取った。気まずい思いが残った。たったの五円ぽっち、めぐんでもらったって車掌さんはうれしくはないだろう。そんなお金に困っている訳ではないのだから。しかもこんな小学生からお金をめぐんでもらうなんて、ひどく卑しめられたようにでも思ったに違いない。ひどく傷つけてしまったかもしれない。悪いことをしたなあと思う。でも、悪気はなかったのだ。
車掌さんはすぐに乗客の間をぬって行ってしまった。謝ろうにも謝れなかった。言い訳したくてもそれもできなかった。その思いをずーっと引きずってきたのだ。

その後、一人でも乗り物に乗って親戚の家に遊びに行くようになった。電車の切符、バスの切符を買う時にお釣りを辞退することなどは決してしなかった。どんな少額でもお釣りを受け取った。それが当たり前であることをしだいに実感していったのである。ところが、タクシーの場合は別だった。小学生の私がタクシーに乗ることはめったになかったが、夏休みの家族旅行などで出かけた時には乗ることもあった。降りる時に父が、「お釣りは結構です」と言うのである。私はどうなるものかとドギマギした。運転手さんを馬鹿にすることにならないだろうか、気を揉んだ。父がいくらぐらいのお釣りなら辞退するのか、私は機会あるごとに観察した。それは端数の数十円であった。運転手さんは素直に「ありがとうございます」と言っていたようであった。だけど、私は下車した後も気になって仕方がなかった。立ち去って行ったタクシーの運転手さんは本当はどう思ったのか、たった数十円のお釣りで人に恩を売られてしゃくにさわったのではないだろうかと心配したのであった。
大人になった私はたまにタクシーを利用する機会がある。父と同じように数十円のお釣りなら辞退しても惜しくはない。しかし、そんなお金で運転手さんは本当に喜んでくれているのか、いまだに疑問である。いっぺん聞いてみたい気もするが、恐ろしくて聞くに聞けないのである。

ところで、目の前にエビの天ぷらが置かれた。それに抹茶塩を付けて食べた。抹茶のわずかな苦みと塩味がエビのうまみを引き立てていた。天ぷらを肴にビールと日本酒を結構呑んだ。いい気分である。そろそろ飲み会もお開きになるだろう。帰るのにはまたタクシーだ。乗れば金を払わなければならない。いくらだろう。九百五十円か。お釣りをどうしようか、気になり始めるのであった。