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小児科医のコラム29 金魚

コラム29 金魚

金魚はとんでもない生き物である。綺麗な姿で優雅に泳ぐイメージからは思いもよらない生態であった。

わが家には畳一枚ほどの面積の瓢箪型の池があって、もう何年も金魚を放し飼いにしている。今の金魚は、多分家内が近くの農産物販売所の片隅で売られているのを買ってきたものだと思う。そうでなければ、夏祭りの金魚すくいで手に入れたものであろう。つまりどこにでも売っているような何の変哲もない金魚である。池を覗き込むと、全身が赤いのと、全身が脱色しているように見えるのと、まだらに赤いのとが、混在している。最初はみな同じような大きさだったのだが、今は個体ごとにかなり大きさが違っている。種類が違うためなのかどうなのかわからない。しかし、そんなことは特別なんとも思っていなかった。餌をくれて育てたわけでもないのに、あるものは巨大化していった。池にミミズが落っこちようものなら、どんなに太かろうとも喰らいついて長い時間かけて丸飲みするのである。おそろしく貪欲なのであった。

ある日、家内がホテイアオイを買ってきた。水面にはどこにも隠れる所がないから可哀想だというのである。私はどんどん増えてしまって始末に困るのではないかと心配したが、意外にもあっけなく枯れてしまった。家内が買い直してきて、また浮かべた。今度は枯れるのが心配だ。ある時、家内が池を観察していると、金魚が根っこをつっついているのを発見した。どうやらかじって食べているようなのである。根をやられてはたまったものではないだろう。家内はバケツに池の水を汲んで、ホテイアオイを移したのであった。こうして、からくも生き延びることが出来たのである。

休みの日に私は庭に出て池の横に置いてあるバケツを覗きこんだら、保護されたホテイアオイが無事に水の上に浮かんでいた。その瞬間であった、激しく体をくねらせながら底に沈んでいくボウフラが見えたのである。私の顔に驚いたのだろう。「ボウフラ!」と声を上げると、そばにいた家内が、お水が古くなって汚れたからそろそろ換えようと思っていたところだと言った。早いことそうしてもらわなければ困る。蚊が発生する。他にもいるかもしれないと、私はもう一度覗き込んだ。すると、何か違う生き物がいる。何だろう、しかも二匹。水面近くでじっとしている。顔を近づけても逃げようとはしない。一センチメートル程の透明な細い体には一直線の黒い筋が入っている。その片方の端がわずかに太くなっていて、やっと見えるほどの黒い目が付いている。魚だ!生れて間もない金魚の稚魚だ。ホテイアオイがバケツに移されて二週間ほどになる。水は一度も換えてはいない。だから、この期間に生まれたのだ。よくぞ生まれて来てくれたとうれしくなった。無条件に気持が明るくなった。

水をこのままにしておくわけにはいかない。家内が入れ替える作業を行った。まず、梅酒用のガラス瓶に水を汲み置きしておいて、ホテイアオイをそちらに移した。そして稚魚は一匹ずつをすくい取って移動させた。すると、稚魚は二匹どころではない。後から後から見つかる。結局四十匹以上も生息していたのであった。根っこにたくさん卵が産み付けられていて、それが孵化したのだろう。もし、稚魚に気が付かなかったなら、汚くなった水とともに庭にうんまかれて、ボウフラとともに全員死亡していたであろう。そうなる直前に、たまたま私に発見されたのだ。まさに九死に一生を得たのであった。

それから毎日、金魚の世話焼きが始まった。我が家では子ども全員が巣立って寂しくなったところだったので、ちょうど良い慰めになったのである。わざわざ餌を買ってきて与え、定期的に水を取り替えた。すると稚魚はわずかずつであるが成長していった。身体にふくらみが見られるようになり、目玉もそれとわかるようになっていった。一方で、死んでしまうものもあった。いったい何が悪いのかわからない。調べて見ると、どうも一定の割合で死んでしまうものらしい。自分たちのせいでないのが分かってすこしほっとしたのである。ところで、この稚魚を一体いつまで育てるのか、家内はどう考えているか聞いてみた。すると意外なことに、自分が育てなくてもいい、もらってくれるところがあればそれでいいというのである。甲斐甲斐しく世話をしていたにしては意外な答えだった。もっとも、わが家の瓢箪池では何十匹もは無理であった。仕事場で訊いてみると、同僚の看護師さんの家で引き取ってもらうことになった。早速、私は梅酒の瓶のふたを閉めて、座布団でくるんでなるべく揺れが伝わらないようにして、車に乗せて持って行った。小さくてかわいらしい稚魚はもらわれた先でも大事にされているようである。

しかし、急にいなくなってみるとなんとなく寂しい気持ちである。だけれども、もうあれこれ気にしなくてもよくなって、私は少しほっとしたのであった。ところがこれで話が終わるわけではなかった。ホテイアオイは池に戻されたのである。そしてしばらくしたのちに家内がまたバケツに移したのだ。すると、間もなく稚魚が姿を現した。新たに生まれ始めたのである。日に日に数を増やしていった。ホテイアオイが池にもどされていた間に、再び卵が産み付けられたのだ。今度は三十三匹であった。家内は、二匹目のどじょうならぬ二回目の稚魚を狙ったのである。そして、見事に成功したのだ。

再び、飼育が始まった。定期的に水を取り替える。その都度一匹ずつ皿ですくって移し替えるのである。だから何匹いるのか数えられるのである。案の定、少しづつ死んでゆくものが出てきて、数は目減りしていった。その一方で、生き残った個体は成長の速いのと遅いのとがいて、体つきに違いが出ていった。私はときどき死骸と生き残った数をかぞえてみるのであるが、大概はもとの数にならないのである。計算が合わない。数え間違えたのか、私の知らない間に家内が死骸を片付けたのだろうと思った。

ところがある朝、家内がいつものように玄関で餌をやっていると、大きな声を上げた。「ひどーい」と、いつになく人を非難するような口調である。私はまた何か私がしでかしたのかと身構えながら「どうした?」と訊くと、また「ひどーい」と言う。悲鳴の理由は共食いの現場を目撃したからであった。一番体格の大きい稚魚が小さい稚魚のしっぽに噛みついて食べようとしていたのである。なんたることか、同じきょうだいのはずなのに。餌だって与えているのに。餌よりも生身のきょうだいの方が美味いのか。私にとってもショックだった。二センチほどのまだ小さい稚魚がこんなに獰猛だとは。小さくて、シラスのように透き通っていて、ちょろちょろと泳ぐ姿に、今の今まで癒される思いでいたのに。だまされた気分である。

これまで計算が合わなかったのは、このせいであったのかも知れない。考えてみれば、親金魚だってミミズを丸飲みするのだ。あの親にしてこの稚魚、さすがである。残りの稚魚はどうか、食べられてしまった稚魚はどうなのか。どれもあの親から生まれた同胞である。だったら獰猛さにかけては同類であろう。ただ早く大きくなるかどうかで、立場が決まったものと推察される。稚魚を見る目が一変した。この時点で、我が家の稚魚は六匹にまで減ってしまっていた。憤慨した家内はその一匹を別の小さいバケツに隔離したのである。さしずめお仕置き部屋である。

残りの五匹は共食いすることもなく、無事に生き延びて行ってくれた。しかし、この五匹の中にもすでに格差が生じていた。四匹は伸び伸びと水の中を泳いで餌も自由に食べるのだが、一匹だけはいつも離れてじっとしていることが多いのだ。なかなか餌も食べに来ない。だから、発育も良くない。のけ者にされているのである。水槽の中は他に逃れる所もないから、さぞや肩身の狭い思いで暮らしていることであろう。きっとお腹もすいているに違いないのだ。どうしてこんなことになったのだろう。皆から総スカン喰らうような何か嫌なことでもしたのだろうか。にわかにはそうは思えない。だとすると、こんな小さな稚魚の間にもいじめとか差別があるのだろうか。あり得なくはない、なにしろ共食いするほど獰猛なのだから。稚魚とはいえ金魚の中にも人間社会のようないさかいがあるのだ。見る目がまた一つ変わったのである。うらなりの稚魚に私はエールを送った。

私は稚魚を見るのと同じ目で池の金魚を見た。大、中、小、やっぱり体格に差がある。それを何とも思ってこなかったが、今は違う。強いものが大きくなり、弱いものが小さくなったのだ。確固たるヒエラルキーが存在している。弱い者は池という限られた空間で逃げ場もなく、いつも虐げられているのかもしれない。池を上からのぞくと優雅に泳ぐ姿が見えるが、それはこちらが勝手にそう思い込んでいるだけで、彼らにとっては想像もつかないほどの暗闘が繰り返されているのだ。

ホテイアオイの根っこをかじる金魚の姿を思い出した。私にはある恐ろしい考えが思い浮かんだ。金魚が食べていたのは単なる根っこだったのだろうか。いや、もしかすると根っこに産み付けられた卵ではなかったのか。そっちの方が美味いに決まっている。振り返ってみればこれまで何年も飼ってきたのに、金魚が増えることはなかった。今まではそんなものだろうと思って疑問にも思わなかったのだが、おかしい。疑惑は私の中でだんだん確信になって行った。

だから、金魚はとんでもない生き物なのである。泳ぐ姿からは想像もつかなかった。私は金魚を見て思うのである、何事も見た目で誤魔化されてはいけないのだと。バラには棘があるとよく言われるではないか。だから、もしかすると……美人には毒がある……のかも知れない。気を付けなければ。

ところで、この六匹の稚魚をいつ池に放そうか、考えなければならない。少なくとも全員の胴体が、太ミミズよりもさらに太くなるまで育ってからでないと、危険であろう。