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小児科医のコラム32 兄の一言

コラム32 兄の一言

今から四十年ほど前、高校一年生の時であった。兄が私に食ってかかってきた。
「ちゃんと石鹸を落としておけよ、きったねえなあ」
私は意表を突かれて唖然とした。とっさに反論しようと思った。しかし、言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。言い争いになるだけだ。得策ではない。不本意だがその場は引き下がることにした。「わかったよ、今度から気を付けるよ」と返事をしたのである。それよりも、何で兄はそんなこと言うのかを考えてみることにしたのである。

昭和三、四十年代ころは、一日おきにしか風呂を立てない家も多くあった。わが家は母が風呂好きだったので毎晩沸かして入った。母が子ども三人と一緒に入り、次々と体を洗ってくれた。一人が洗ってもらっている間、他の二人は湯船で遊んでいるのだ。ヘチマのあかすりは泡立ちが悪いので、母は時々石鹸を継ぎ足さなければならなかった。しかし、いつの頃からか化学繊維のあかすりが世に出回るようになった。ヘチマよりもずっと泡立ちがいいのである。我が家でもヘチマからこれに替わっていった。

やがて年が長ずると、みんなが一人で風呂に入るようになっていった。もちろん私もである。入る順番は決っていたわけではなく、その日その日で順不同だった。私は一人で入浴して、一通り体を洗い終えると、お湯をかけて泡を洗い流した。しかし、あかすりには石鹸が残っていて、まだまだ泡がよく立つのである。もったいない。もっと洗える。だったら、次に入る人が使えばいい、そう思った。だから、石鹸と泡をそのまま残しておくことにした。私は風呂に入るたびにそうした。かくして兄は、いや兄だけに限らず家族全員が、私の次に風呂に入った日には、使い残した石鹸が付いたままのあかすりにご対面していたのである。

誰がこんなことを繰り返すのか、兄はついに私が犯人であることを突き止めたのであった。そしてその日、業を煮やして私に文句を言ったのだ、「ちゃんと石鹸を落としておけよ、きったねえなあ」と。ところが、私にすれば良かれと思ってやっていたことである。怒られるなどとは思いもよらなかった。汚いと言う意味が分からない。何がどうして汚いのか、良く考えてみようと思った。

私にとって、あかすりに残った石鹸、全然汚くなどない。だって今の今までそれで自分の体を洗っていたのである。きれいだから使っていたのである。もう一度その石鹸のついたあかすりで体を洗えと言われれば、何の抵抗もなく手にして使うことが出来る。なのに、兄は汚いという。母にヘチマで洗ってもらっていた時も、石鹸を継ぎ足しされながら、三人きょうだいを次々に洗ってもらっていたではないか。だからといって汚いと感じたことなど一度もない。なのに、兄は汚いという。分からない。

人によって感じ方がこうも違うのか、不可解だった。しかしこれが現実だ。仕方がない。私は納得できないまま、その都度あかすりの石鹸を洗い落とすことにした。ああ、もったいないなあ、まだ使えるのにと、涙をのんだ。これを兄は汚いと感じるのだ、と何度も自分に言い聞かせた。しかし、何度言い聞かせても、兄の感覚は自分には芽生えてはこなかった。しかし、もうはっきり思い出せないが、いつのまにか気が付いたら兄の気持ちがよく分かるようになっていた。だいぶ時間がかかったように思う。そうだよなあ、人が使った後の石鹸なんて気持ち悪いよ。あの時は家族みんなに悪いことをしたなあと思う。

高校を卒業してから学生寮での集団生活が始まった。そこは共同風呂であった。大人数の学生が決められた時間内に入らなければならない。いつも混み合っている。脱衣所で体と体が触れ合う。なんか気持ちが悪い。ぶつかった瞬間、ばい菌が乗り移ったかも。相手の肌の汚れがひっついて来てしまったかも。洗い場も順番待ちである。前の人が使っていた桶と椅子、そのままでは抵抗がある。桶をお湯でいったんゆすいで、そのお湯を椅子にかける。そうしてから椅子に座るのだ。そうすれば気が済むのだ。だけど、前の人にとってみれば全く汚くはないはずなのだ。それに、お湯を一回流したからといって、どれほどの衛生的な効果があるというのか。科学的な根拠などとは無縁ではあるが、それで気が済むのだ。それをしないと気が済まないのだ。
私は寮の風呂を嫌って近くの銭湯を利用することにしてみた。開店間際の銭湯は、洗い場の椅子に桶が逆さまに乗せてある。まだ誰も使っていないからきれいですよというメッセージに受け取れるのだ。だから、そのまま使うことが出来る。本当にその桶と椅子が衛生的かどうか、科学的根拠はない。しかし、安心して使ってしまうのである。

私はなんとも遅まきながら気が付いたのである、相手がどう感じるかは必ずしも自分とは同じではないということを。結局はその人がどのように感ずるかにかかっているのだ。実態は衛生的なものでも、見た目で不潔に感じてしまったりする。あるいは、衛生的なものであっても、その素性が明らかでないと衛生的とは思えないのだ。人の感じ方は、理屈にかなったものばかりではないんだということである。自分だってそうである。兄もそうであって当然なのだ。それが分からなかったのだ。だから、私は臆面もなくあかすりの石鹸を残したのである。ところが、兄にとってはその石鹸を私がどのように使っていたか知る由もない。信用できない。だから不潔に感じたのだ。当然である。母がヘチマに付けた石鹸は信用できるものだったのだ。それはお母さんが目の前で使っているからである。お母さんがすることは、安心できる。だから兄も、私も、妹も、平気でヘチマに継ぎ足された石鹸で順に洗ってもらえたのである。

医者になったら、自分の考えをいかに患者さんに伝えて、同じように感じてもらうことが最も重要であった。いわゆるインフォームドコンセントというやつである。そのためには、できるだけ相手の立場になって考えることが重要なのだ。私にとってそれを最初に教えてくれたのは、あの兄の一言であった。あの一言がなかったら、私は自分の考えがいつも正しいと勘違いする独りよがりな人間になっていたかもしれない。なるべくそうならないように気をつけていたいと思うが、実際はなかなかそううまくはいかない。自分の思い込みが強いと、ついよけいなことをやらかしてしまうのである、良かれと思って。しかし、それが大きなお世話であったと後からわかると、ほんとにガッカリして反省するのである。気を付けたいと思う。

私は、あのときムキになって兄に反論しなくてよかったと、つくづく思い返されるのである。