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小児科医のコラム47 日本自動車博物館 その三

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コラム47 日本自動車博物館 その三

高速道路のパーキングエリアから本線に戻ろうとした時のことだった。ゆっくり車を発進させて駐車スペースから出た。加速車線に入るには手前で左折しなければならない。私はいったんアクセルから足を離しブレーキを軽く踏んで減速させた。そしてハンドルを左に切った。加速車線に入ったなら今度は合流点まで一気に加速するのである。私はアクセルを踏み込んだ。ところがどうしたことか、踏みごたえが突如としてなくなったのである。まるですっぽ抜けた感じだ。何が起こったのか訳が分からない。車は力なく減速し始めた。私は焦った。こんな所で停まっては非常に危険だ。思いっきり加速してくる後続車に追突される。とっさにハンドルを回して路肩に寄せて止めたのである。まさかのエンストだ。すぐにハザードランプを点滅させた。イグニッションキーを回してみた。セルモーターはまわるがエンジンがかからない。もう一度やってみた。でも駄目だった。

一刻も早くこの加速車線から退避しなければならない。幸い道路は駐車スペースの方に傾斜している。重力の力でバックするのだ。私はギアをニュートラルにいれた。後続車が来なさそうな頃合いを計ってパーキングブレーキを解除した。車はゆるゆると移動し始めた。私は後方を見ながらハンドルを操作して車線からゼブラゾーンに侵入させた。とりあえず追突される危険はなくなった。これからどうするか。まずは気を落ち着かせることだ。

何分か待った。だが、そう簡単に落ち着けるわけはない。非常事態だ。心臓は高鳴ったままだ。胸に手を当てなくても分かる。私は最終的にはロードサービスという手があるじゃないかと自分に言い聞かせた。セルモーターは回るのだからバッテリー上がりではない。ガス欠でもないはずだ。給油してそんなには走っていないのだ。燃料計もそれを示している。じゃあなぜエンジンがかからないのか。もしかすると燃料タンクからエンジンにガソリンがうまく供給されないのか。長年使っている車だから、燃料パイプのどこかが目詰まりでもおこしたのだろうか。ガソリンに含まれるわずかな不純物やまぎれこんだゴミなどがたまるのは十分あり得ることだ。だとしたら、ちょっとでもごみがはがれ落ちれば動くかもしれない。私は試しにエンジンをかけてみた。するといつも通りにすんなりとかかるではないか。そのうちにまた止まるのだろうか、アイドリングのまましばらく待ってみた。しかしいくら待っても止まる様子はない。さっきはアクセル踏んだ瞬間に止まったのだから、もしかしたらと思って空ぶかししてみた。ゴミが詰まればまた止まるだろう。ところが意外にも普通に吹き上がった。何回も試した。どこもおかしな様子はない。さっきはいったい何だったんだろうか。いや、原因が分からない以上これから先また同じことが起こるかも知れない。家まであと三十キロあるのだ。

このパーキングエリアにはスマートインターチェンジが併設されてある。ここから一般道に降りようか、一か八かこのまま高速で帰ろうか。どちらにしても、もし途中でエンコしたらロードサービスを呼ぶしかない。知らない一般道では自分がどこにいるのかもよく分からないが、その点高速道路なら一本道で単純だ。路肩に止めてじっとしていればわけなく発見されるだろう。私は覚悟を決めた。ギアをドライブに入れて加速車線へとハンドルを切った。

今度は問題なく加速して本線に合流した。いつ止まってもいいように走行車線だ。スピードは出さない方がいいに決まっている。他の車の流れに影響しないように八十キロで走行した。そして無事に帰ることを祈り続けたのである。その祈りが通じたのか何事も起こらずに家にたどり着くことが出来た。安堵したものの、今までにない恐怖体験になった。加速しなければならない状況というのはなるべく早くその場から離れる必要がある時、つまりぐずぐずしていたら危険な場合である。脇道から大通りに出る時、交差点で右折する時、道が合流する時などだ。そんなときに不意にエンストされたら事故につながりかねない。私はまたしても修理を依頼した。

いつものモータースの人によると古い車では時々見られる現象なのだそうである。おそらく燃料系統の異常で修理は何か月かかるか分からないし、しかもそれで直るかどうかも分からないとのことだった。いままで何度も無理を聞いて修理してくれていたのが、今回は初めてのギブアップ宣言であった。多額の金をかけても直ればいいが、そうでなかったらまったくの無駄だ。個人の力では限界だった。私はこの車を諦める決心を迫られたのである。

しかし私にとっては医者になってからの二十六年間と、この車が重なっているのだ。伯父さんの車から私の車になって、ようやく好きになって、誇れるようになって、いたわって来たのである。分身みたいなものだ。潰されてスクラップになるなど到底耐えられない。かといって自分の家にオブジェとして飾っておくわけにもいかない。だめもとで日本自動車博物館に電話してみた、引き取ってもらえないかと。すると、まず車の概要と外装の写真を郵便で送ってくれとのことであった。早速その通りにした。検討した上で返事をもらえることになった。ところが、その直後に東日本大震災が発生したのである。世の中が大混乱になった。電気もガソリンの供給もままならない状況である。もう返事は来ないのかと思った。

気をもんでいた所に連絡がきた。引き取っていただけるとのことである。ちょうどクーペタイプの車を集めていた所だったのだそうである。そして改造してないノーマルの状態を保っていたのでそのコレクションに入れてもらえることになった。よかった。博物館で保管してもらえれば安心だ。いつになるか分からないが展示されたら見に行きたい。北陸新幹線もじきに延伸する予定だ。そうすれば簡単に行けるだろう。マークUだけじゃあない、二十六年前に引き取ってもらったブルーバードにもまた会える。わざわざ石川県小松市から引き取りに来るという。そしてその日が決まった。それが平成二十三年四月二十二日であった。その日を前にして私と家内で洗車することにした。せめて綺麗にして送り出してやりたかったのだ。
当日、迎えのトラックが来た。機械だからいつか壊れる時が来る、別れる時が来る、当たり前だ。そんなことずっと前から分かっていたのだ。そして、いよいよそうなったときに博物館で引き取ってくれることになった。
こんなにいいことはないではないか、ほかにどうにもしようもないじゃないか、そう何度も自分に言い聞かせた。しかし、この期に及んでも自分の手元に置いておきたい気持ちを捨てきれないでいた。頭では分かってはいるんだ。分かってはいるんだけれど、トラックの荷台にウインチで乗せられてゆく自分の車を見て、これで最後かと思うと私は惜別の情に駆られたのであった。



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