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小児科医のコラム58 「もてない理由」と「もてないかもしれない理由」の理由

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コラム58 「もてない理由」と「もてないかもしれない理由」の理由

私はもてなかった。理由はいろいろある。まずは体型だ。著しい胴長短足。私の一番のコンプレックスなのである。その次は私の身なりだ。労務者風のファッション、女子学生には受けるはずもない。そして、極め付きは髪型だ。長髪とスポーツ刈りを交互に繰り返したのである。髪が伸びるだけ伸びて、いよいよ鬱陶しくなって耐え切れなくなるとスポーツ刈りにする。そしてまた伸びるだけ伸ばす。耐え切れなくなったらまた切る。このサイクルを繰り返した。突如として豹変する私の髪型に、友人はそのつど驚かされていた。女子の顰蹙を買ったのは間違いないであろう。つまり、私は外見の第一印象で即アウトだったのである。

胴長短足には強い劣等感を抱いていた。でも、どうしようもなかった。胴を短くする方法なんてない。だから、せめてもと思って猫背にしていたくらいである。一方、足を長く見せるのにはシークレットシューズというものがあった。雑誌に通信販売の広告を見つけた。一見普通の靴の様だが、踵の底が厚くなっているやつだ。「七センチ背が高く見えます」などと書かれてあった。私は心惹かれた。しかしそんなものはすぐにばれる。元々私は身長が高い方である。足が短いのをカバーして余りあるほどの胴長なのであった。そんな私がいきなりもっと高い身長になれば目立つに決まっている。悪あがきがバレバレだ。かえって恥の上塗りというものである。じゃあ整形したらどうか。雑誌には美容外科の広告もたくさん出ていた。でも、足を長くする手術など一切載っていない。背が低くて悩んでいる人もいっぱいいるだろうのに。足を長く見せたい人だってたくさんいるはずなのに。どうして足を長くする手術はないのか不思議に思った。すねの骨を斜めに切って、少しずらしてくっつければいいじゃないか。そう難しいことじゃないだろう。だけど、少し考えてみたらすぐ気がついた。骨だけ長くすればいいってもんじゃない。筋肉だって伸ばさなければならない。血管だって、神経だって、皮膚だってそうだ。それらは急には伸ばせられないのだ。無理なことが分かった。私はあきらめざるを得なかった。

私の野暮ったい服装や奇抜な髪型は、親のすねをかじりながらの学生生活で編み出されたものである。実用性、経済性重視の価値観による必然の結果なのだ。それは女の子受けするものではなかった。でも当時の私には分からなかった、なんで自分はもてないのか。私は小さい頃から「使えるものは使う。使えなくなるまで使う」という考え方だった。そうするのが当たり前。そうしないのは罪。つまり、もったいない精神である。医者になってからはさすがに外見に気をくばるようにはなったが、それでもこの精神にかわりはない。そして、私の子どもとして生まれた息子に受け継がれたのである。息子は現在大学生だ。久しぶりに帰省した姿をみたら、みすぼらしい身なりである。私も人のことをとやかくは言えないが、それでももう少しましな格好をした方がいいのになぁと思う。今だからこそ私もそう思えるのだ。だったら、息子もそのうちに気がついてくれるだろうか。しかしそれまでは、もしかすると私と同じように、息子はもてないのかもしれない。

私がもてなかった理由と息子がもてないかもしれない理由は、この「もったいない精神」である。ではどうして私にこの精神が身に付いてしまったのだろう。考えてみると、小さい頃からご飯は一粒も残さず食べるようにしつけられてきた。たった一粒の米だって作るのに一年かかるんだ、それだけ大変なんだと教えられた。だから粗末にするなというわけであった。おかげで全部きれいに食べる習慣がついた。今でも深く染み着いている。だから、残すなんてことは余程の勇気がないと私には出来ない。そして、食べ物だけに限らず、私は何にでももったいないと思うようになった。それには二つのことが思い出されるのだ。

昭和四十年、私が小学校二年生の時だったと思う。ある土曜日の昼、私は学校を終えて家に帰った。当時はまだ週休二日制ではなかったから土曜日の午前中も学校があったのだ。給食は出ないので授業が終わると下校である。各々が家に帰って昼食をとるのであった。私は家の門の木戸をあけて中に入った。すると、いきなり母に出くわした。門柱の陰に立っていたのである。ビックリだ。たまたま鉢合わせしたというよりも、母が私を待ち構えていたようであった。母が小声で「これでラーメン一個買って来ておくれ」と言ってお金を渡して来た。その時の母の顔をはっきりと覚えている。変だ、いつものお母さんじゃあない。眉をしかめた情けない顔をしている。手渡されたのは赤銅色の十円玉と鈍い黄金色の五円玉。私の記憶が正しければ一枚ずつだった。だから十五円である。そのままお金を受け取って近所の商店に向かった。でも、私には解せなかった。何で即席ラーメン一個っきりなんだろう。たったそれっぽっちでわざわざ子どもをお使いに行かせることないじゃないか。いつもなら必要なものをメモに書きだして頼むのに、それがどういうわけか今日はラーメン一個だけだ。それだけの買い物じゃあ子ども心にもちょっと恥ずかしかった。だが、私は言われたとおりに買い物をした。お店の人が茶色の紙袋に入れてくれた。たった一個のラーメンのために紙袋を使わせてしまって申し訳ない気がした。家に帰ったら早速それを母が作ってくれた。なんだ、私のお昼だったのだ。その時はそれ以上何も考えずに食べてしまった。母も何も言わなかった。だけど、後々思い出しては疑問だった、どうしてラーメン一個だけだったのか、なぜ母はあのような顔つきだったのか。

あるとき、私は気が付いた。あの時はラーメン一個買うお金しかなかったのだ。それを大人のお母さんが買いに行くのは恥ずかしかったのだろう。だから子どもの僕に買いに行かせたのだ。僕が帰って来るのを門の陰で待っていたのだ。ランドセルしょったままの子どもが買いに行けば、学校帰りに自分のお小遣いで買いに来たとお店の人は思うではないか。そうだ、きっとそうだよ、そうにちがいない。最後の十五円だったのだ。だからあんな顔をしていたんだ。それで僕のラーメンを買ってくれたのだ。だとしたらあの日、お母さんはお昼ごはんどうしたんだろう。食べなかったのかも知れない。お母さんは何も言わなかったけれど、それほどまでにお金がなかったのだ。私は切なく思えてきた。お金がないってこんなに悲しいものなのかと。私は時折あの時の母の顔を思い出すのである。

昭和四十年代、世の中はそんなに豊かではなかった。月末にお金の集金人が来ても手持ちの現金がない事など珍しい話ではなかったのである。我が家もご多分に漏れなかった。でもそんなことは子どもの私には知る由もなかった。しかし、あのラーメンの一件以来、私は知ってしまったのである。そうとなれば一円でも粗末にするわけにはいかない。母にあんな顔はさせたくないのだ。これが私のもったいない精神の原点である。決して無駄をしてはならぬ、と子どもの心に深く刻まれたのだ。だから、風呂場で頭を洗っていても、流れ落ちるシャンプーの泡がそのまま排水口に流れてゆくのはもったいないとつい思ってしまうのである。

ある夏の日の昼間、私は電気が気になりだした。自分の知らない所で無駄にしてはいないか。うっかり消し忘れている電気はないか。家じゅう見廻ってみた。だけどまだ見落としているものがあるかもしれない。もしそうだとしたら、こうしている間にも電気が無駄になっているのだ。そう思ったら放ってはおけなくなった。どうしたらいいんだろう。そうだブレーカーだ。あれが落ちれば家じゅうの電気が消えるじゃないか。小学生の私の頭にひらめいたのである。あれを落とせばいいのだ。私は配電盤のある便所に行った。窓をよじ登ってブレーカーに指をかけて、パチンと下におろしたのである。これで安心だ。家じゅう特に変わった様子もなかった。昼間だから点けている電燈もなかったのだ。

そのあと私は居間で遊んでいたら、母からお使いを頼まれた。「アイロンが壊れたから電気屋に行って直してもらって来てくれ」と言うのである。母は洋裁の内職をしていたのだ。すこしでも生活費の足しにするためである。個人のお客さんの服を完全オーダーメイドで作る。希望を聞いて一緒にデザインを考えて、採寸して、型紙を作ってと、完成まですべての工程を行っていた。母は夏場でいくら暑くても扇風機を使わなかった。電気代がもったいないからではない。風で生地や型紙が飛んでしまうからなのだ。アイロン掛けの時はいっそう暑かっただろうけど、我慢してやらなければならなかった。我が家に限らず、当時はエアコンなど一般家庭には普及していない時代だった。

私はアイロンを持ってなじみの電気屋に持って行った。そしたら店の人が預からせてくれと言う。私は言われるままに預けていったん家に帰った。しばらくしたら店から連絡があった、とりに来てくれと。私は母から百円持たされてとりに行った。すると、店の人からはアイロンはどこも壊れてなかったと言われた。さらに、点検した手間として百円いただきますと。私は左手に握っていた百円玉を渡してアイロンを持ち帰ったのである。

家に着くと母がすこし苦笑いしながらに私に言った、「ブレーカーが落ちてたんだよ」と。私を余計なお使いに二度も行かせてすまなそうだった。私はハッとした。そうだ、すっかり忘れていた。母はブレーカーのことなど知らないから、てっきりアイロンが壊れたかと思ったのだ。電燈も点けてはいないし扇風機もまわしていないから、ブレーカーが落ちていたことにすぐには気が付かなかったのだ。それで壊れてもいないのに百円も取られてしまった。僕が悪いのだ。払わなくていいはずの百円だった。お母さんが暑さを我慢して汗水たらして働いたお金だ。それをみすみす無駄にしたのだ。私は悔やんだ。悔やんでも悔やみきれなかった。自分がブレーカーを落としたことを母には言えなかった。心の中でお母さんにあやまった。さっきまで握っていた百円玉を思い出した。稲穂がこうべを垂れているデザインだ。ラーメンが何個も買える金額だ。取り返しがつかない。悲しかった。

今でもあの時の十円玉、五円玉、百円玉が思い出される。お金がなかった悲しみ、無駄にしてしまった悔しさ。だから私は、食べるもの、使うもの、エネルギーを使うことにも、一層神経をとがらせるようになったのである。それが私のもったいない精神のルーツである。すなわち、「私のもてない理由、そして私の息子がもてないかもしれない理由」の理由なのである。息子までも巻き込んでしまった。すまない気がする。